鈴木 勝 研究室
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中国語カラオケ行脚  partU  「アジア編」

[はじめに]

“改革・開放の波”が大陸の沿岸部から内陸部に浸透し続ける中国ではカラオケが、いたって盛ん。その中国ではカラオケを「卞拉OK(本ホームページでは活字がないために「卞」となっておりますが、実際は文字の上部は「上」です。念のため)」と書き、その中国文字の看板が中国の都市のあちこちに林立してしている。そんな中国に駐在し、中国語の歌を一曲覚えたばかりに、“中国語・卞拉OK”に魅かれ、他人よりちょっと多くカラオケ・クラブを訪れるハメになった。

  前回は「卞拉OKでめぐる中国都市ガイド」のタイトルで、カラオケを通じて知った「中国や中国人」のガイドを試みた(中央公論1996年5月号)。北京駐在から日本に帰り、出張などでアジアの諸国を訪れる度に、中国語・卞拉OKソングがこれらの国々でも盛んに歌われていることを知った。
 
 アジアの国々には“チャイナ・タウン”があり、“華僑・華人”が多く住みついている。彼らは政治経済のみならず文化にも中国の影響を強く受け、ライフスタイルも中国風を固執している。そんな彼らの憩いの一つにカラオケがあり、中国語の歌が主流になっている。時折、北京で覚えたチャイニ−ズ・ソングを携えてカラオケ・クラブにふらりと立ち寄れば、その国の“生”の動きを素早くキャッチでき、また華僑・華人の様子を垣間見れる。
 ところで、これはなにも海外だけではなく、身近な新宿や池袋のクラブにも「」があることを発見。なぜなら、北京で覚えた懐かしのチャイニ−ズ・ソングに度々、出会うからだ。

今回は「中国語・卞拉OKでめぐるアジア都市ガイド」と銘打ち、アジア事情および日本での物語をお届けしよう。ところで、中国語カラオケ行脚の効用はすでに、三つ紹介した。
[その一] カラオケは政治・世相インスタント把握術
[その二] カラオケは人治社会でのビジネス成功術
[その三] カラオケは中国語会話スピ−ド習得術

ここに、もう一つ付け加えよう! 
[その四]カラオケは海外中国人(華僑・華人)社会・熟知術だ。

各地域にチャイナ・タウンを作り、中国人同士の地縁・人縁を頼り、たくましい生活を続けている人々−インドネシア・(600万人)、タイ(500万人)、マレ−シア(468万人)、シンガポ−ル(196万人)、フィリピン(100万人)、ベトナム(100万人)、となれば、アジアでの生活には華僑・華人抜きには考えられない。こんな社会に、中国語三曲下げて、街に出掛けてみれば、通貨危機に揺れるアジアがさらに広く、そして深く見えてきそうだ。

< バンコク・タイ> 〜“微笑みの国”のカラオケ〜

 OLに人気のあるスタ−・石田壱成の登場するテレビ宣伝・・・「タイは若いうちに行け!」や「タイゆけば」・・・を見た人もいるかもしれない。このタイ航空による観光誘致のキャッチ・フレ−ズが効を奏したのだろうか、最近のタイの旅行客にはOLや若い男性が目立つようになった。アジアの中にあってはエキゾチックな雰囲気があり、なんといっても魅力的なビ−チ・リゾ−トがあちこちにある。たとえば、プ−ケット、サムイ、ホァヒン・・・。他方、そんな静かできれいなビ−チよりか、バンコク市内の喧騒がたまらないというOLも多い。ある時、交通渋滞で有名なバンコクの市内の“チャイナ・タウン”に足を踏み入れた。このタウンはバンコク中央駅「ホァランポ−ン駅」の西側にある。歩道には人が充満し、夜店がさらに通行の邪魔をしている。その賑やかな道路脇に「卞拉OK」の看板がネオンで浮かび上がっている。「チャイナ・タウンは危険だよ!」といったバンコクの駐在員が心配顔で後に付いてきている。店先に若い女性が二人。顔付きは中国人的容貌だ
 私   「ニイハオ!」
 小姐  「ニイハオ!」(タイの国で中国語が返って来た)
 私   「ここはカラオケ? 中国の歌はある?」
 小姐  「もちろんよ!」
店の中を覗いて見た。大勢の大人に交じって子供が多く、彼らは食事をしている。一方ステ−ジの上では若い女性がマイクをにぎって懸命に歌っている。どうやら、「タイ式ダイニング・カラオケ」らしい。店の中を見回していると「二階にもあるよ!」と、小姐が中国語で案内してくれる。
 私   「ところで、いくら?」
 小姐  「ビ−ル一杯、一五0バ−ツだよ(1バ−ツは約三.五円)」

 そんなに高くない。二階には三人掛けの深々したソファ−が一0脚ばかり、ステ−ジに向かって並んでいる。ほとんどいっぱい。二人組のおじさん、子供を連れた夫婦、若者の三人組と様々だ。隣りの男性が中国語の歌をうたい始めた。二行になって歌詞が登場する−上段は全く読めないクネクネしたタイ文字で、下段は中国語−。二曲目に歌ったのは中国語の文字だけのもの。しばらく、観察するとタイ文字だけのものも結構登場する。その文字の下にロ−マ字でヨミがふられている。これならタイ語がわからなくても歌えそうだ。中国語やらタイ語のカラオケの画面にはふんだんにタイの街角が登場する。そこには必ず美人が出てくるが、タイ美人でなく色白のチャイニ−ズ・ビュ−ティ−だ。やはり、この国でもカラオケ産業はチャイニ−ズが牛耳っているらしい。各々のソファ−には二人ほどのサ−ビス・レディ−が付き添って、歌の注文、マイクの手配、デュエットの相手etc。果ては時間をみてはマッサ−ジ師よろしく、肩をもんでくれる。「タイ・マッサ−ジ」で名を馳せているお国柄らしい。そんないたれりつくせりのカラオケ小姐に話かけた。 
 私  「
?
小姐 「生まれは中国の潮州でけど、ズ−とバンコクよ。母親と妹は潮州に住んでいるけれど・・・」
私  「名前は?」
小姐 「楊よ」
私  「楊貴妃の“楊”だね!」

 こんな会話で小姐も慣れてきたのだろうか、いろいろ説明をしてくれる。「今、歌っているのは潮州人よ」とか、「あの福建人はうまいわね!」。彼らの出身をスラスラいってくれる。私は中国に長く住んでいたから、多少言葉や態度で出身地がわかることもあるが歌を聞いただけで中国のどの地方かを識別するのは至難の技。しかし、同郷愛のことさら強く、同じ故郷の仲間が寄り集まる・・・そんな中国人は一語一句も聞き漏らしそうにない。特に海外での中国人はなおさら。このカラオケ小姐もそうだが、このタイには広東省の潮州出身者が圧倒的に多い。

  ところで、タイの華僑・華人にはなぜ、潮州人が多いのか、ちょっとした歴史があるんです。一八世紀の半ばに「華僑王朝」が短期間、誕生。潮州出身の父親とタイ婦人との間に生まれた、ピア・タ−クシン(鄭昭)がタイの王位に就いた。しかし、後に殺されて王朝は続かなかったが、その時代のタイ開発の労働力に父親の故郷の潮州人に求め多くがやってきたことに由来する。こんな経緯もあってか、タイの華僑・華人がアジアの他の国々と異なって抑圧・迫害を受けず、タイ社会にすっかり融合している。
   さて、こんな陽気な楊小姐と、彼女が好きだという「WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW (明日も私を愛してくれますか?)の英語の文句の入った中国の歌「明天你是否依然愛我」(英語と同じ)をデュエットし、このカラオケにさよならした。

<シンガポ−ル> “クリ−ン&グリ−ン・シティ−”のカラオケ

 「N E W  S I N G A P O R E 」。
この言葉をご存じですか? シンガポ−ル政府観光局が最近、打ち出している観光宣伝キャンペーンのこと。従来は単に「シンガポ−ルにおいでなさい!」と観光立国を前面に打ち出すことに躍起であったが、ここにきてみごとに変身。シンガポ−ルを“ゲイト・ウエイ(入口)”として、お使いくださいということだ。
 例えば、近隣諸国のリゾートにシンガポ−ル経由でどうぞというわけ。「シンガポ−ル+ロンボック(インドネシア)」、シンガポ−ル+プ−ケット島(タイ)」「シンガポ−ル+ビンタン島(インドネシア)」など。

 “観光立国”シンガポ−ルには今では一00万人以上のツ−リストが日本から行っているが最近ではやや伸び悩み。こんなツ−リズム促進の新手がこの妙手だ。この「シンガポ−ル+隣国」のコンセプトの最新版は「ビンタン島リゾ−ト」。インドネシア領の島でシンガポ−ルの沖合四五kmのところに一大リゾ−トを開発し始めている。すでに一部のホテルとゴルフ場がオ−プンし、これから数軒のホテルが建設される予定になっている。

 このビンタン島リゾ−トの開発現場を訪問したおりに、夜のシンガポ−ル探索に出掛けた。「クリ−ン&グリ−ン・シティ−」の上に、「セ−フティ−・カントリ−」といわれている。思い切って、あるカラオケを覗いた。七〜八人程の個室に入るとすかさず、チ−フ格の女性が希望を聞く。「マレ−シアン OR チャイニ−ズ?」、きっとご相伴の小姐のことなのだろう。「ミックスで・・・」と、こたえると五分程してマレ−系とわかる女性と色白のチャイニ−ズが何人か入ってきた。さっそく、左隣りのチャイニ−ズ小姐との自己紹介。なまりのない(北京語)で返事が返ってくる。
小姐 「両親は中国の山東省出身なの…」
私  「ぼくは北京に四年ほど住んでいたけど・・・、ところで、
    昼間は何を?」
小姐 「近くのファッション店で働いているんです」
と、話がいろいろ進展して行く。
「中国の歌はどう? 一緒に・・・」と、両親が山東省出身の女性が訊いてきた。中国語が多少喋れるのなら歌はどうだろうか、と試しているようだ。チャイニ−ズ・ソングの歌集をぺらぺらめくると、四文字のペ−ジに「最後一夜(ズイホウイイエ)」の曲を見つけた。
(ここの歌集も中国本土と同様に、一文字、ニ文字、三文字…と文字数での配列となっている)。
「“最後一夜”は?」と、始めて会った小姐に尋ねたので多少驚いた様子だが、すぐ、「OKョ」。一曲歌い終わると、とたんに親しくにこやかになり、次の歌を捜し出す。歌が好きなのだろうか、それとも中国の歌を歌う人が余りいないせいなのか。そう言えば、このクラブはややデラックスの部類で隣近所の個室では英語や日本語が主流の雰囲気だ。したがって、きっとチャイニ−ズ・ソングを歌ってくれるお客に親近感を覚えたのだろう。

  ところで、シンガポ−ルに住む中国人はアジアの近隣のチャイニ−ズと異なっているといったら言い過ぎだろうか。「英語を通じた高等教育を受け、西欧的面を持っているとともに、生活文化的には中国的習慣を兼ね添えて、海外にも積極的に出掛けて行く」。これが“現代シンガポ−リアン”。
  さて、ややデラックスな正統派のカラオケ・クラブを経験した翌日に、異色でちょっと洒落たシンガポ−ル式カラオケに遭遇。称して、「ハイティ−・カラオケ。「ハイティ−」はご存じのように英国植民地時代の置き土産。イギリスでは夕食前の軽食としてだが、シンガポ−ル・スタイルは昼下がりのお茶として定着。紅茶を飲みながらスコ−ン、サンドイッチ、クッキ−などを食べるもの。さすがは商売上手のシンガポ−ル人。「ハイティ−
カラオケ」を考案した。しかし、残念ながら表から覗くだけ。次回にはハイティ−を味わいながら、チャイニ−ズ・ソングをエンジョイしよう!

<クアラルンプ−ル・マレ−シア> 〜“マルチ・カルチャ−の街”のカラオケ〜 

  マレ−語で“泥の川が交わる場所”が「クアラルンプ−ル」だという。まさしく、世界の川が行き交う感じの都市だ。ところで、この都市を作ったのは中国人。
時代は一八二0年代。マレ−半島に「ブ−ム」が起こり、スズを求める中国人がクアラルンプ−ルに巨大なスズ鉱脈を発見したことで首都の歴史は始まる。タイトルのように複合文化の街らしく、空港から市内に入るや、目に入ってくる人々の顔形はマレ−系、インド系、中国系、ヒンズ−系やヨ−ロッパ系、そして看板のサインも同様に色とりどりだ。もちろん、中国人が開いた街らしく“チャイナ・タウン”がある。しかし、クアラルンプ−ルは二、三日住めばわかるように、この街全体が“チャイナ・タウン”といってもおおげさではない。中国系が全マレ−シアの約三0%にあたる、五五0万人にも上っている。中国語の奇妙な「卞拉OK」の文字も堂々と街角に掲げられている。

  ある晩、そんな看板のある大きな一軒の店を覗いた。ステ−ジ付きの大ホ−ルの周囲には「個室」がいくつも設置されている。最近、日本や中国などでは歌が多く歌えて便利だという理由から、また仲間同士だけでエンジョイする方が楽しいという理由から「個室」が評判を得ているが、ここも同じ傾向かもしれない。しかし、大ホ−ルの方が広々しゆったりできる上に、他のお客の様子、特に海外では外国人のしぐさなりが知れて楽しいという「大ホ−ル派」も多い。
  私   「?(あなた、中国人?)」、
すかさず、
  小姐  「I AM A MALAYSIAN!(私はマレ−シア人ョ!)」 
 
  大きな声で返って来た。そうか、「“中国系”マレ−シア人だね」と言えばよかったのだ。彼女たち中国系人はすでに「マレ−シア国民」として完全に根を張っていることを、強調してきたのだろう。ところで、そう答えた小姐は「王さん」といい、ペナン出身だという。首都クアラルンプ−ルにやってきて、カラオケ小姐として二年ほど経つという。カラオケ・ソング集とリクエスト・フォ−ムを持って、「なにか、歌って・・」と待っている。手にしたソング集はさすが、“マルチ・カルチャ−・シティ−”のカラオケ・クラブらしく数多くの言語だ。「英語」、「マレ−語」、「中国語」はマレ−シアの言語として当然だが、「日本語」そして「ハングル」もある。中国語のペ−ジをめくり、「」にしようか、「」にしようか、それとも大好きな「」にしようかと迷っていると、
小姐  「決まったら、ナンバ−をいってくださいネ」
私   「え−!」(歌のタイトルを言えば、ナンバ−を捜してくれるのが普通なのに)
小姐  「実を言うと、私、中国語は喋れるけれども、読めないんです!」
私   「あなたは、チャイニ−ズだろう?」 
小姐  「こうやって喋れて、簡単な漢字は分かるけれども、難しくな
     るとだめなんです!」

  喋っている我々の会話は中国語だが、希望の歌のタイトルを実際に指し示すと、「(お月さん)」はなんとか分かったのだが、ちょっと難しい「」になると全くわからないらしい。従って、歌詞コ−ドのナンバ−を見て、「
A 1 2 3 ! 」・・・と言って頼むことになる。それにしても、容貌は全く中国人でありながら、中国語を書けない“ニュ−・マレ−シアン”には驚き。これからはこんな人種が、ドンドン出てくるのだろうか。
 
  突然、クラブの呼び出しアナウンス嬢が「NEXT SONG,YUE LIANG DAIBIAO WO DE XIN BY MR.SUZUKI、PLEASE」(次の歌はミスタ−・スズキの歌の「月亮代表我的心」です。どうぞ!)と。
 となりの王小姐の促しに沿って一緒にステ−ジに上がり、そこに置かれたしゃれた椅子に腰掛ける。彼女も隣りに並ぶ。中国語の字幕が次々と登場。彼女も一緒に歌うがどこまで読めるのかわからない。良く流行っている歌なのでみんな諳じているのかもしれない。さて、各国の歌があるといっても圧倒的に中国語のレパ−トリ−が広い。しかし、王小姐のように中国語を読めないチャイニ−ズ・マレ−シアンも増えている。こんな歌い手に対して、バンコクで見たように「中国語にピンイン(ロ−マ字ふりがな)をする方法」が案外、良いアイディアなのかもしれない。
 ところで時折、王小姐もそして同僚のチャイニ−ズ小姐も自分の好きな歌をリクエストしてステ−ジに上がる。その時は中国語の歌でなく、きまってイングリッシュ・ソング。“ニュ−・マレ−シアン”はマルチ・カルチャ−の国民にますます変身していく。

<ジョホ−ルバ−ル・マレ−シア> “国境の街”のカラオケ 

 
マレ−シアの南の玄関口のジョホ−ルバ−ルはシンガポ−ルに接したエネルギッシュな国境の街。最近、サッカーのワ−ルドカップ・アジア予選で日本人に有名になった所。混雑していなければシンガポ−ルまで三0分で行ける。シンガポ−リアンで賑わうジョホ−ルバ−ルだが、他の外国人も大勢やってくる。この都市も首都のクアラルンプ−ル同様に“マルチ・カルチャ−の街”の一つに変わりはない。この街にもお馴染みの「チャイナタウン」がある。

  道案内のチャイニ−ズ系マレ−人のタンさんに連れられて夕食時の中華街を見て回った。そこを通り抜けて、新しくできたグランド・ホテルに向かいつつ、
「あそこのカラオケ・クラブは安全なんです!」。
ジョホ−ルバ−ルでのご推薦のナイト・スポットなのだろう。エレベ−タ−で七階を降り、そのクラブの扉を開ければ、なるほど推薦するに値いしそうな雰囲気でもある。しかし、マレ−シアの社会探訪を目論む私にとってはゴミゴミした方が好きだ。安全性が優先しての案内なのだろうから、しょうがない。入口近くの大ホ−ルはマレ−人の若者がマイク片手に熱唱している。マレ−シアのカラオケには何回か尋ねてはいるが、いわゆる“マレ−系”マレ−シア人がこんなに大勢で歌っているのは始めて。マレ−系は中国人とちょっと違う。マイクを持つ手がなんだか、ぎこちないが、真面目に懸命に歌う。
 一方、中国やアジアのチャイナタウンで見てきたチャイニ−ズ・シンガ−は歌はへたでも堂々として、余裕を感じさせる。その上、ポ−ズを作って、いわゆる“様”になっている。また、中国人社会と大きく異なるのはマレ−人社会らしいのは「アルコ−ル厳禁」。もちろん、宴会では中国人のように「
カンペイ !」もなく、二次会のカラオケにも酒はない。数人のマレ−の若者の座っているソファ−の前のテ−ブルにはジュ−スとコ−ラだけ。それでいて、みんな酔っ払った雰囲気で大賑わい。
  さて、こんな大ホ−ルの周囲にはかなりの数の個室がある。その一つに案内された。柔らかなソファ−に身を持たせると同時に、御用聞きの“チ−ママ”がやってくる。案内のタンさんとなにやら喋った後に数人の小姐たちが入ってきた。
 なるほど、マルチ・タウンらしい。外目からもわかるように、中国系、マレ−系、インド系の女性たち。右隣りに座った小姐はマレ−系のベロニカ小姐。ジョホ−ルバ−ル生れのジョホ−ルバ−ル育ち。一年前からこのクラブで働き始めたという。母国語のマレ−語に加えて、英語、中国語の順で使いこなすという。歌なら日本語もレパ−トリ−も入るらしい。たしかに、日本語の歌が登場すると、デュエット用のマイクを口にして歌い出す。しかし、彼女のマルチ・ランゲ−ジぶりは特別なのではないらしい。ジョホ−ルバ−ルでは他の女性たちも語学の達人らしい。その証拠には配られた選曲リストのバラエティ−さ。歌の多さを順に挙げれば、@中国語、A英語、Bマレ−語、Cハングル、D日本語となる。これらを歌うお客をいろいろとエンタ−テインしなければならないからだ。
 
  ところで、C番目のハングルは奇妙な取合わせ。尋ねれば、最近、韓国からのビジネス&観光のお客がずいぶん増えているとか。韓国人の海外での猛烈ぶりは他のアジアの国々でも多く見ているが、このジョホ−ルバ−ルでも同じらしい。(最近の、“韓国通貨・ウォンの下落”で状況は激変しているが…。)それにしても、日本語ソングのレパ−トリ−はまったく貧弱。オ−バ−ナイトなしのシンガポ−ルからの日帰り観光客&ビジネスマンの多い日本人型ではジョホ−ルバ−ルの夜をエンジョイできないのは当然といえば当然。

  ところで、一般にマレ−系マレ−シア人は中国語は苦手。歌うのはイングリッシュ・ソングかマレ−語の歌が通り相場。しかし、“国境の街”ジョホ−ルバ−ルのマレ−系小姐にとって、隣りの“中国文字使用国”のシンガポ−リアン相手ではチャイニ−ズ・ソングは必須科目らしい。かくして、中国語ソング・文化圏はアジアのなかで、ますますシェアを拡大している。

 <サンダカン&コタ・キナバル> 〜“オランウ−タンの島”ボルネオのカラオケ〜

  「ボルネオ」というと、タイテイの日本人は熱帯のジャングルを想像してしまうらしいが、大都会もいくつかある。この章の「ボルネオの中国語カラオケ」で登場する場所は東マレ−シア。
  日本人には愁いの響きを与えるサンダカンがある。ご存じのように「サンダカン八番娼館」は昭和初期の南洋・ボルネオの物悲しい歴史を細かく伝えている。”からゆきさん“−明治の初期から昭和にかけて売春婦として海外、特にアジアに、多数流れていった女性たち−のお墓が紺碧の海を見渡す丘の上にひそやかに横たわっている。すぐ近くにある派手な造りの中国人墓地やイスラムのお墓とは対照的だ。サンダカンは今ではイスラム系と中国系マレ−シア人がひしめきあう、人口二六万人の街になっている。イスラム系五0%、中国系四五%。南の島にこんなにもチャイニ−ズが住んでいるとは想像外。したがって、街中には中国語の看板がこんなに氾濫していることがうなずける。夜ともなれば中国の北京や上海でよく見掛けた「卞拉OK」文字が映えている。

  「R
E C R E A T I ON  C L U B 」のサインのある店に、この街の観光推進のプロモ−タ−の一人に招待された。ここはメンバ−制のクラブだという。ゲ−ムのブラック・ジャックは完全にメンバ−だけしか入れないが、レストランやカラオケなどは一般にも開放されている。普段はごったがえしているというクラブのカラオケ・コ−ナ−も「春節」(旧正月)を直前にして閑散としている。数人の男性は、中国系はわずか。大部分はマレ−系。そう言えば、今年はイスラムのお祭り「ハリラヤ」が中国の「春節」とぶつかり、ボルネオの島はおお賑わい。中国系もマレ−系も今晩はこんなところでウロウロできないのだろう。クラブではマレ−人の誰かがリクエストしたのだろうか、マレ−語の歌がエントリ−されて、マレ−語の字幕が次々に写しだされている。しかし、曲が流れるが歌い手は遂に登場しない。エントリ−をしたのだが、まだ、時間的に早いのか、それとも聴衆が少なくて気分が乗らず、止めにしたのかもしれない。

 ところで、備え付けのカラオケ・ソング集には北京や上海のカラオケに引けをとらない中国語の歌の多さだ。「国語」(普通語)と「語」(広東語)の両方に分類されている。このRECREATION CLUBの近くに、ネオンのもっと派手な「卞拉OK」のサインのあるクラブが二軒向かい合っている。一つは同伴女性付きのクラブ。もう一つはフリ−タイプの“BYO”クラブだという。RING
OUR WN、いわゆるガ−ルフレンド持ち込みクラブのこと。ホテルの中国系マレ−人スタッフは時折、恋人とこんなカラオケに来ると言っていた。
 こんな二つのタイプの南洋・卞拉OKクラブは「春節」を直前にしてガラガラ。とにかく、オランウ−タンのいるジャングルのイメ−ジのある「ボルネオ」に中国文字「卞拉OK」を発見し、嬉しいやら悲しいやらの交錯した感情。とにかく、訪問時期が悪く“歌唱行脚”ができず、そしてボルネオ住民の歌いっぷりを観察できなかったことも心残りでもあったが・・・。

<香港>“返還の街”のカラオケ  

  
「中国への返還」の式典が一九九七年六月三0日に行われ、今では一国二制の新生中国・ホンコンが始まっている。ただし、この章は返還式典の半年前の慌ただしい香港の「卞拉OK行脚」物語。“秒読み状態”になってきた香港を返還前になんとか一度は見ておきたいという日本のツ−リスト、そして香港の魅力に“はまってしまった”リピ−タ−で香港旅行は過熱ぎみ。中国政府は返還後五0年は現体制を保持すると約束しているが、どうなるだろうか? 
 また、香港観光の魅力の一つのショッピングを例に挙げても、返還後も果たして、バラエティ−で安い買い物がエンジョイできるかも課題。この魅力がなくなれば、香港旅行客もグ−ンと減少するのは目に見えている。香港観光産業促進チ−ムの一員として、香港返還後のツ−リズムの行方は最大の関心事。

  ある時、「返還後」のビジネスト−クのために香港に出張した折りに、「あわただしい昼間の香港人相手のビジネスの疲れを癒しましょう!」とばかりに知人が夜の部に誘ってくれた。「KARAOKE」と書いた看板に、もちろん香港チャイニ−ズのクラブを連想したがまったくの見当はずれ。小姐たちは色の黒い、ほりの深い容貌で英語をぺらぺら喋る女性たち。「フィリピ−ノだよ」。ついでに「ママさんはさ!」と連れが紹介してくれた。お客の大部分は日本人。白人も混じっているにはいるが、どうやら、おもに日本人や韓国人を上得意とするクラブらしい。香港で主流のチャイニ−ズ・ソングは遂に登場しない。そういえば、歌集は英語、日本語、ハングルはずいぶんあるが、中国語はわずか二ペ−ジ。中国人社会ではまったく歌われていない歌ばかり。 

  ところで、返還後にはこんなカラオケ・クラブはどうなるのだろうか。中国本土並みに「カラオケ・クラブには中国・愛国の歌55曲を備えるべし」のお触れ(中国文化省により一九九四年十一月に発令)が出るのだろうか、と考えさせられた。 数少ないチャイニ−ズ・ソングの中から、聞き覚えのある一曲を申し込んで歌いはじめたが、途中でギブアップ。中国語の歌を置いてあるクラブなら、北京でもバンコクのチャイナタウンでも歌舞伎町でも、助けを求めることができるし、また援助の手をさしのべてくれるのが普通・・・。どうやら今晩のこの香港クラブには中国語ソングを歌える小姐たちはいそうにない。中国人社会の香港なのにと思いつつ“レッセ・フェ−ルでインタ−ナショナルな香港”をいかんなく発揮している場面なのだろう。

  半島からホテルのある香港島に渡った。「百万ドルの夜景」と謳われて久しい香港の夜景の美しさは今でも変わらない。香港島の夜の町並みを歩いていると、ある看板が目に入った。「新時代卞拉OK」。宣伝文句からすると、どうやらカラオケ・ボックスのようだ。最近の日本でもかなりの流行りようだが、香港もまけてはいない。しかし、カラオケに付随した説明書きや各種のエンタ−テインメントは香港の方が一枚上なのだろうか?
*「貴賓庁房」・「電脳卞拉OK」・「可供麻雀要楽」(貴賓個室ではコンピュ−タ・カラオケの設備あり。マ−ジャンも楽しめます)
*ロ卑酒毎杯 (ビ−ルは一杯 $一五〜$二0です)
  歓楽時間(十二:00中午〜0八:00PM)
 黄金時間(0八:00PM〜0一:00AM)  
 夜遊時間(0一:00AM〜0六:00AM) 

 看板の宣伝文句はいろいろだ。夜の時間帯もきめ細かく区分けしているなんて、心憎い香港ビジネス。そのクラブに入り、最近、香港で流行りの「電脳卞拉OK(コンピュ−タ・カラオケ)」の秘密を開示してもらった。部屋には一切、カラオケ・ソング集はない。全てボタン式で歌いたい歌を探すシステム。最初のボタンでまず、言語。@広東語  A国語 B  語  C戯曲  DENGLISH  E日本語。  Aの「国語」を押せば、@一文字 A二文字  B三文字・・・と字数の配列。 次は好みの歌の字数のボタンを押せばよい。例えば、好きな歌の「月亮代表我的心」となれば、七文字のボタンを押せばよいことになる。最近、日本でもランチ・カラオケが評判になってきているが、香港チャイニ−ズらしいのは「卞拉OK午餐」(カラオケ・ランチをエンジョイできます)や「特設BUFFET PARTY」(ビュッフェも特別に準備できます)。
 食事大好き人間・中国人と歌の結び付きは中国本土でも同様。こちらの香港ではもっと派手になっている。また「夜遊時間(0一:00AM〜0六:00AM)」の登場。香港返還・カウントダウンを前にしての、時間を惜しんでの営業なのかもしれない。いずれにしても、香港ビジネスのをカラオケ・ボックスで発見。返還当日までこのトレンドはさらに加速されそうだ。(返還直後に香港へ訪問しているが、残念ながらカラオケ歌唱行脚はやっていない。しかし、新生・香港の街は返還前と同じ活気を帯びている。)

<マカオ> 〜“カジノの国”のカラオケ〜 

  
マカオは香港に遅れて、二年後の「一九九九年十二月」に中国に返還される。返還後の行く末を見つめて、最近のマカオの建設ラッシュはすさまじい。目玉の一つである、海を埋め立ててのマカオ空港は九六年に完成し、中国との距離は身近になり、また東南アジアとの交流はさらに活発になっている。ご存じのように、マカオはポルトガルの統治だが、住んでいるポルトガルは数パ−セントにすぎない。国民のほとんどは中国人。

  カジノの国・マカオにも「卞拉OK」の中国文字がきらめいている。くだけた感じのあるカラオケ・クラブに首をつっこんだ。すでに深夜なのに大勢のお客。ほとんどが中国人。マカオの住民なのか、香港からやってきたのか、または遠く中国大陸か台湾なのだろうか。曲を申し込むと正面のボ−ドに座席ナンバ−が表示されるシステムになっている。自分の順番が回ってくると、テ−ブル・ナンバ−に明りが点く仕掛け。聞き覚えのある中国ソングが何曲か続いた。突然、日本の歌「北国の春」が、発音と音程がちょっと違うが、流れてきた。後ろに座っていた中国人男性だ。慣れた調子からすると、きっと彼の持ち歌なのかもしれない。歌い終わって、テ−ブルに帰りぎわに
    私    「!
(うまい! うまい!)」
    中国人  「THANK YOU!
(と、上手な英語がかえってきた。ほめられて嬉しくなったのか・・・)、
         「ところで、あなたはどこから?」
    私    「東京だよ。あなたは?」
    中国人  「カナダのトロント。今、マカオに里帰りしてきて
          いるんだ。」
 英語と中国語で会話が弾んだ。彼はきっと、トロントのカラオケ・クラブでもこうやって日本の歌を披露しているにちがいない。 ところで、なぜ、彼がトロントに住み、今マカオに帰ってきているのか知る由もないが、ひょっとすると、彼は「太空人(宇宙人)なのかもしれない。「太空人」って、ご存じですか?そっとお教えしましょう。香港返還前の一時期、香港の中国人が海外〜特にカナダやアメリカへ〜に移民として行く人が急増したが、カナダやアメリカに適当な仕事がなく、また香港に戻ってきて仕事をしていた人々が多くいた。数か月に一度、カナダやアメリカに帰らないと移民資格を喪失するので、行ったり来たりしていた。もちろん、彼らは妻子を残していたことも理由の一つであるが…。そんなところから彼らに、〜空中で長い時間過ごす人〜の名前が付けられたんです。彼は、さしずめ、“マカオ版「太空人」”かもしれない。

<ホ−チミン市・ダナン・フエ〜ベトナム〜> 
         〜“刷新(ドイモイ)の国”のカラオケ〜
 

  
「ドイモイ」の国として、外国から脚光をあびているベトナム。ご存じのように「ドイモイ」は“刷新”の意。多くの日本企業が進出に関心を持っている。その証しに関西空港のオ−プンを機にJALとベトナム航空の両社がベトナムまで直行便を出し、半年も経たないうちに増便を発表した。主にビジネス客だが、それに、一般観光客も増えつつある。こんなに往来が激しくなってきたベトナムで、首都・ハノイ以上に急激な進展を見せるのが南のホ−チミン市。 そんな活発なホ−チミン市をある時、訪れた。一口でこの街を形容するならば、「オ−トバイとアオザイとカラオケの街」と言ったらピッタリか。
 まず、オ−トバイ。昼間もすごいが、夕方から夜にかけてが更に拍車がかかる。若いカップルが目立つが、女性同士、男性同士。そして、ファミリ−も負けてはいない。前に一人、後ろに一人の子供を乗せて、まるで曲芸乗りの夫婦と、とにかく凄まじい。
 次はアオザイ。こんな無目的に走るオ−トバイの群れの中にベトナム名物のアオザイ小姐が混じっている「アオ」とは“上衣”を、「ザイ」とは“長い”を意味し、ベトナムを代表する衣装だ。ベトナム航空のスチュワ−デスのコスチュ−ムがそうだ。その透き通ったコスチュ−ムは乗客の目を引き付けている。 こんな「オ−トバイ」と「アオザイ」の街に最近、にわかに街に溢れてきたのは「カラオケ」。ベトナム語が主体であるが、中国語が一番多い。続いてハングル、日本語、英語と、まさしく現在、ベトナムに投資を展開している順だ。中国語圏からの投資は中国本土ではなく、台湾&香港が中心となる。また、これらの地域からはビジネス客のみならず物見遊山のツ−リストもかなりやってきて、カラオケクラブのお客様となっている。 また、もともとベトナムは華僑・華人が多いところ。陸路移住可能な、地理的関係の中国とはかなり古くからの往来がある。第二次大戦後にはベトナム南部を中心に一00万人以上の華僑・華人がいたが、ベトナム戦争および社会主義化への結果、大量の中国系の難民が海外に流出した歴史もそれほど遠い話ではない。しかし、一九八六年からスタ−トしたドイモイ政策で、ホ−チミン市のチョロン地区を中心にして華僑・華人がかなり増えてきている。
 
  さて、ホ−チミン市以外に、”ベトナムの京都”フエのカラオケを紹介しよう。ここは一軒、二軒だけではない。ちょっとオ−バ−だが、「カラオケ・ビレッジ」いわゆる“カラオケ村”がある。ある一区画の民家が数軒かたまって“カラオケ村”を編成。各民家の入口にはおじいさんやおばあさんが店番をしている。ミュ−ジック機器は母屋を改造して置かれ、操作担当は息子夫婦だ。大部屋はなく個室を主体としている。暑そうな個室に若いカップル、別の部屋では若い男性の三人が一列にならんで画面を見つつ歌っている。ベトナム語が主流で中国語は付け足し。もちろん、このあたりには日本語はない。 

 次の日はダナン。ダナンはベトナム戦争の頃、アメリカ海兵隊の基地として世界に名を轟かしていた所。今では戦争の傷跡はすっかりなくなり、港町として活気を帯びている。この港町の通りには「CAFE KARAOKE」が有名。コ−ヒ−を楽しみながら、昼夜を分かたず、歌を楽しもうということらしい。「ダイニング・カラオケ」、「ストリ−ト・カラオケ」、「ボ−ト(屋形)・カラオケ」・・・といろいろな形態のカラオケを見てきたが、「CAFE KARAOKE」ははじめてだ。さて、ホ−チミン市でも、フエでも、そしてダナンでも、ベトナム式カラオケ・クラブではホステス役の小姐がお客をそっちのけにし、ベトナム語で夢中で歌う。そんなベトナム小姐が飽きずに歌うレパ−トリ−には中国の歌が多い。なかでも、テレサ・テンの歌が大人気。そんなことを露も知らず、彼女たちはマイクを持って離さない。

<ジャカルタ・インドネシア> 〜“赤道直下の街”のカラオケ〜

 アジアのチャイナタウンのどこでも見られる中国語看板の「卞拉OK」、ところがこのジャカルタではどこのストリ−トを、そしてどこの路地を捜しても、この文字は見付からない。そればかりではなく、中華街のどこにもあるごてごてした中国語文字の看板さえ見当たらない。インドネシア文字ばかりだ。これはアジアの中でチャイニ−ズに対して、極めて異例な扱いをしている国・インドネシアの一面ともいえる。アジアの国々の中で華僑・華人がもっとも多いといわれているのがインドネシア。その数は五00万〜六00万。いや、一、000万人も住んでいるのではといわれている。その実数が把握できないのはいろいろな理由がある。ほかの国では、華僑・華人の大部分は首都などの大都市に住んでいるが、インドネシアは全国に分散していること。
  次に、華僑・華人に対しての過去の迫害が強かった歴史に起因し、中国系の名前からインドネシア名へ変更しているためなどが大きな理由らしい。ところで、「九・三0事件」(一九六五年九月三0日)では、インドネシア軍部と共産党の大衝突で華僑・華人が迫害を受けたのは有名。この時期、公共の場所、印刷物、日常生活で中国語の使用が全面的に禁止された。この時、ジャカルタのチャイナタウンの中国語文字の看板が一夜のうちに消えてしまったとか。今でもその流れを受け継いでいることになる。しかし、いろいろな過去もあるが、最近の躍進するインドネシアの経済活動をしっかり支えているのは華僑・華人パワ−であることはたしか。 

  さて、「KARAOKE」の看板の付いた、ある大きなビルの中のクラブにインドネシアのヤング数人を誘った。廊下に沿って、個室の各々に名前がついている。「SEOUL」、「HONG KONG」、「TAIPEI」、「NEW YORK」に混じって、一番端に「SAKURA」がある空いていた「SAKURA」ル−ムを指定。インドネシアのヤング仲間と一室をキ−プし、飲み物を注文。すかさず、カラオケ・ソングの選曲リストがどっさりと運ばれる。歌のバラエティ−さは中国の本土といえどもヒケを取らない。中国語、英語、もちろん、インドネシア語もかなりある。日本語はまるで“付け足し”。アジア一帯で有名な一曲を選んだ「北国の春」をみんなで歌う。画面には日本文字は登場せず、みんなロ−マ字だ。それにしても、ミス・プリントの連続でちょっとひどすぎる。しかし、「そんなメクジラをたてずにエンジョイしよう。ここは外国なんだから」と歌い続ける。こんなに貧弱な日本語の歌と比較して、中国語の豊富さと正確さにはオドロキ。多くのチャイニ−ズが利用している証しなのだろう。
  さて、このカラオケ・クラブの隣りは中国式デラックス・レストラン。チャイナタウンのこの辺りの建物は外見は決して見栄えはよくない。しかし、内部にはいると見違えるほどの施設となる。このレストランはショ−付きで派手だ。覗き込んだ丁度その時は、円テ−ブルでの食事も終りかけた多くのチャイニ−ズが、ステ−ジ上の歌手の歌に聞き惚れている最中だ。「(酔っ払いのタンゴ)」の歌。北京駐在時代に行きつけのカラオケ・クラブでしばしば、耳にした歌でもある。歌い手自らも軽やかなタンゴを踊りつつ歌っている、さしずめ、“チャイニ−ズ版”越路吹雪といったらよいだろうか。このように大勢の中国人といい、中国式宴会といい、まるで北京や上海の一流のシアタ−・レストランにいるようで、ジャカルタとはまったく思えない。どうやら、このインドネシアでは表面的な規制が強ければ強いほど、内面的にチャイニ−ズ・カラ−が強まっていくのかもしれない。

<バリ島・インドネシア> 〜“踊りの島”のカラオケ〜 

 インドネシアの首都・ジャカルタとは、これでも同じ国なのかとびっくりするほどの違い。ジャカルタは最近の経済成長の勢いで、ビルが林立する大都会。一方、バリはビルのかわりに椰子林とマングロ−ブが一面に繁茂するリゾ−ト地。その上、雰囲気を変えさせている大きな要素は宗教。ジャカルタはどこにいてもコ−ランの響きがこだまするイスラム文化都市。
  他方、バリは牛を崇めるヒンズ−文化の街。夕闇迫るバリのケチャック・ダンスでの演目“ラ−マ−ヤナ物語”が世界の国々からのツ−リストを魅了している。一時期、日本人はコレラ騒ぎで観光客が激減したが、その事件もほぼ納まり、最近ではバリ人気が復活している。ヨ−ロッパ、アメリカ、オ−ストラリアからは、相変わらずコンスタントに観光客がきている。ところが、西欧人や日本人が主流だったバリ島に最近では、日本人以外の東洋人がガゼン増えている。中国人だ。主に台湾・香港。もちろん、中国本土からはまだまだ少ない。そんな台湾や香港からの中国人はバリ島の美しさを活発に見てまわるが、夜の部も盛ん。そんなチャイニ−ズに評判のあるカラオケ・クラブに顔を出した。選曲リストの中国語ソングの収蔵はかなりのもの。早速、その内の一つの中国語の歌を選んで、問い掛けた。   
    私      「デュェットで、どお?」
    カラオケ小姐 「OKよ!」
    私      「何語で?」
    カラオケ小姐 「もちろん、中国語でよ!」
    私      「
( 「雨の中で」)だョ」
    カラオケ小姐 「YES!」

 順番がまわって、二人でステ−ジに上る。「デュェットで、どお?」と英語で聴いたがその直前に中国語ですこし喋りかけたが、英語しか返ってこない。果たして、こんな調子で中国語の歌ができるかな、と。しかし、そんな心配はご無用。舞台に上がったあとの彼女の歌いっぷりは堂々たるもの。もちろん、画面の歌詞はすべて中国文字。
漢字を追って(?)、器用にデュェットしてくれる。漢字が読めるのに嘘をついているのか、それとも丸暗記してしまっているのだろうか? とにかく、不思議なバリ・カラオケだ。      

<セブ島・フィリピン> 〜“ホリデ−・アイランド”のカラオケ〜 

   最近の経済や治安の安定も手伝って、フィリピンへの旅行もかなり多くなってきている。大都会のマニラよりかむしろ、ビ−チ・リゾ−トのあるアイランドが評判を得ている。中でも最近、脚光を浴びているのはセブ島。フィリピンには数多くの島々があるが、その中央部に位置する島。

  デラックス・ホテルの「シャングリラ」は常に満員状況だ。そんな日本人に混じって多くの中国人のツ−リストがいる。中国語圏の台湾や香港からだ。そんな彼らをエンタ−テインするために、この南の島にもチャイニ−ズ・カラオケ・クラブがある。その証拠に横文字の国・フィリピンなのに夜のカラオケ・クラブに漢字が飛び交っている。考えてみればなにも台湾や香港などの中国人のツ−リストだけではない。フィリピンには一二0万人の華僑・華人が住んでいる。首都のマニラに多くの華僑が住んでいるが、今回訪問のセブもチャイニ−ズの移住の歴史も長い。一七、八世紀には同国を支配していたスペイン人のもとで流血の惨事があったが、華人系のアキノ大統領の出現などで華僑・華人のパワ−は増した。いまではフィリピン経済の担い手としてますます期待がかかっている。 

  さて、あるクラブ。サインは「KARAOKE」。入口に大きく掲げられたネオン。入口近くには10人近い女性がソファ−に座っている。「????」と思いつつ、中に入る。薄暗く、中央にはステ−ジと大きなスクリ−ン。丁度、中国人が歌っている。聞き覚えのあるチャイニ−ズ・ソングだ。側には女性が立っている。その曲が終わって、次に歌い出したのはどうやら日本人らしい。発音が正確だ。彼はステ−ジに立たず、ソファ−にどっしり、腰を落ち着けたまま。傍らに。そうか、そういえば、入口当たりに座っていたのはそのためなのだと、合点がいった。日本語が一曲、登場した後はほとんど、中国語のオン・パレ−ド。
  ところで、これらの中国語版のビデオはフィリピンで作られているらしい。北京や上海そして、深土川での中国語ソングのビデオはほとんど同じメ−カ−で、香港や台湾製だ。新宿や池袋もそこからの輸入が大部分。他の東南アジアの国々も同様だ。しかし、フィリピンはちょっと違う。なぜかって? 一人の中国人が「(北国の春)」を歌った。その中国語の歌のは中国本土や香港と全く同じだが、風景はまったく違う。スクリ−ンの雪景色のかわりに、ひんぱんに「椰子の樹・葉」が登場するからだ。これこそ、“ ”の証しだろう。 

<ウランバ−トル・モンゴル> 〜“砂漠の街”のカラオケ〜

   旧ソ連邦の息のふきかかった「モンゴル共和国」はその国の解体後、独自の路線を進み始めた。しかし、ソ連邦との連携が長期間だったために、生活様式など万事がロシア的。お隣りの中国の影響は想像よりはるかに少ない。まして、中国語をしゃべれるのはほとんどいない。しかし、こんな「」(中国ではモンゴルをこのように呼ぶ)も訪れる度に変わっていった。

  首都のウランバ−トルには外国人を受け入れるホテルも数軒ある。そんな中にトップクラスの「ホテル・ウランバ−トル」があり、そこはむしろ、東洋人よりかヨ−ロッパやアメリカ人で常に賑わっている。そのホテルに、最初に訪れた時にはなかったカラオケ・バ−が、どんな理由なのか、翌年にはできていた。英語がほとんどのリストの中に多くの種類の中国語の歌が加えられている。はたして、中国人の訪問がこんなに多くなってきたのだろうか? それとも政治的ジェスチャ−なのだろうか? とにかく、中国および中国人との接触が急激に増えてきた証拠なのであろう。
  そういえば、北京に住んでいた頃、「秀水街」と呼ばれる市場があった。そこでは衣類やファッション・グッズが安く売られ、中国人のみならず外国人も多く出入りしていた。外国人の中で、特に、日本人と顔形の似たモンゴル人が目だっていた。そんな彼らは大量に購入した物を大きな梱包にして飛行機や国際列車で運んでいた。たしかに「外蒙古」と「中国」が急速に接近している現象だ。そんな国際情勢をホテル内の中国語・カラオケが証明している。チャイニ−ズがステ−ジにあがる風景にお目にかかれなかったのは残念だったが。

  さてついでながら、ゴビ砂漠での中国語でないカラオケ話を。モンゴルでのツ−リストの宿泊の主流は“ゲル”(中国ではと呼ばれている「天幕家屋」)というテント。ゴビ砂漠には建物はそれほどない。その少ない建物のちょっとした部屋に歌える設備がある、といえば誰もがビックリ。英語の曲が大部分の中で日本の歌「SUKIYAKI・SONG(上を向いて歩こう)」がエントリ−されている。近い内に中国語ソングが収蔵される時がやってくるかもしれない。

<新宿&池袋・日本> 〜日本の“外国”・チ−パオ小姐カラオケ〜 

   ちかごろの新宿はすっかりインタ−ナショナルになった。歩いている人を見ると日本人以外の外国人が多いことに気付く。特にアジア人。ときおり、そんな“エイジアン・タウン”の有様をテレビは追っかけている。この新宿に行きつけのチャイニ−ズ・卞拉OK倶楽部がある。経営者は台湾人。しかし、カラオケ小姐の大部分は中国本土。上海、北京、吉林、昆明などからだ。なかでも、上海人が圧倒的。中国にはこんな言葉がある。「北京愛国、広州売国、“上海出国”」とはよく言ったものだ。こんなことより、われわれ日本人に驚きは政治的には「中華人民共和国」と「中華民国」は相対しているが、東京のビジネスではしっかり手を握っていることだ。そして、“ジャパン・マネ−”を稼いでいる。

  ところで、中国人の来日が増した理由には法律がゆるやかになったせいでもある。上海だけでなく、中国からこんなにも出国しはじめたのは歴史は浅い。法律上の緩和は一九八六年に「中国国民出入国管理法」が施行、一九九0年に「私費出国に関する規定八ケ条」が施行された。もっとも多いのは私費留学だ。

  さて彼女たちは全て留学生で、昼間は日本語を学ぶ語学専門学校や大学に通っている。その学資や生活費の捻出に毎晩、カラオケ・クラブに出勤している。留学生の中にはもちろん仕送りもあるが〜ほとんど、マレだが〜自分で稼いでいる。ウィ−クデ−の夜だけでは日本の学費や生活費がひねりだせない。土曜日や日曜日もビッシリ、アルバイトのスケジュ−ルが詰まっている。
  しかし、こんな生活費に追いまくられている留学生の小姐たちのなかに余裕のできている者もいる。日本からの海外旅行だ。中国本土に住んでいる中国人にとって、外国行きは業務渡航が中心。たとえ、仕事でも中国側でのパスポ−トはなかなか許可がおりないのが実情。その上、パスポ−トに加えて、相手国のビザの取得も至難の技。
  したがって、日本に留学中の彼女たちの魅力は日本以外の外国行きが、最近のトレンド。ビザを取るとなると大変だが、「トランジット扱い」なら四八時間とか七二時間とか行ける国がある。そんな短い時間でも是非行きたいと、行きつけのカラオケの小姐はシンガポ−ルに行った。ここは「トランジット扱い」で四八時間〜二日間〜は無査証OK。あわせて、香港の「トランジット扱い」は無査証でOK(これらは政治的な事情
etc.で時折、変更されることもあるが…)。 
  かくして、上海への帰省が、「東京→シンガポ−ル→香港→上海」という、“欲張りル−ト”となる。帰省の時だけではない。中国人の仲間四人でオ−ストラリアへという小姐たちもいる。さて、こんな小姐たちが働いているカラオケ・クラブはどうかというと、中国語以外、日本語あり、ハングル朝鮮語も、そして英語もという有様なので、いろんな人種がきている。中国語のカラオケがふんだんにあるため、中国人も多い。日本に住んでいる中国人に混じって、台湾やシンガポ−ルからの旅行者や出張者もいる。

  ところで、カラオケ営業は競争も激しく、あの手この手で客の誘致を計る。「金曜日はチ−パオ・ナイト」を打ち出して客寄せをしている、あるカラオケ・クラブの中国人がいる。ご存じのように、“チ−パオ”とは「旗袍」と中国語で書く。中国・清朝時代に女性が纏っていたもので、えりが高く裾にスリットが入っている。「チャイナ・ドレス」と呼ばれ、艶やかだ。スラリとした中国女性にはこのチ−パオは一段と映える。中国本土では一時なくなっていたが、改革・開放で最近の北京や上海の街に登場してきている。もちろん、普段着ではなく、夜の宴会やパ−ティ−などの席上ではあるが…。
  ところで、最近の日本での中国語カラオケの話。日本人のなかにも中国語の歌を覚えに通って来る人が多くなってきた、とは言う。歌とともに中国語をしゃべりたい同好の士も多くなっているとか。中国が身近になっていることはたしかなようだ。

[あとがき]

  ところで、「なぜ、中国でこんなに多くのカラオケ・クラブを回ったかって?」「まず、仕事上必要だったから・・・・」がその答えとしよう。トラベル・エ−ジェントとして北京に駐在。その役目は中国への日本人観光客の推進。そのためには“中国の旅”に魅力を発掘しなければならない。

  従来、中国旅行は団長や秘書長などの同行の大勢の団体での堅苦しい中国旅行が一般的。しかし、1989年の天安門事件以降、急激に中国は変わっていった。それにつれて、旅行形態もドラスティックに変貌し、徐々にヤング・レディ−や個人旅行が増えてきた。
  しかし、観光目的の日本人にとって、中国のデスティネ−ションはまだまだ“魅力薄”の状態。日本人ツ−リストの中で、特にヤングレディ−の動きがはげしく、彼女たちに魅力ある中国にしなければならない。また、アメリカ、ヨ−ロッパ、オ−ストラリアのように、個人の旅行客でも自由に動ける環境に中国を持って行く必要がある・・・といろいろ痛感。その模範を北京でなんとか・・・と。
 こんな発想から、東京都内を走る「はとバス」よろしく、北京に「にいはおバス」を走らせることにした。  このバスがあれば、フラリとやってきた独り旅でもOK、そしていつでも北京を満喫させられる。故宮、万里の長城などもちろん、回る。中国文化の茶館も挿入そして、夜は京劇見物と。しかし、これだけではあまりにもきれいすぎる。中国人の生活をさらにという目的で、北京の夜景に加えて、北京の庶民が楽しむ「カラオケ・クラブ」を思いついた。“下見”目的で北京のカラオケ・クラブを片っ端から巡った。こんなキッカケと冒頭で述べた中国語の歌一曲を覚えたことが拍車をかけた。あとは本書に紹介のように、「北京」から「全国」に拡大していった次第。

  さて、これはある北京のカラオケ・クラブの総経理(支配人)と小姐たちからの寄書き。(お詫び:簡体中国語がなく読みずらい個所があります)。
「你永遠是銀座的貴賓」        (盧陵東)
「無論走到仆麼地方、希望
永遠記得、銀座是永遠的朋友」 (祁雪梅)
「真誠祝福
!在這里我人門共同渡過這美好的観楽、回憶」(寧文)
「送
 一人分最真誠的祝福、它会時時刻刻伴着」(李 紅)
「真的希望人尓不要走、真的希望
留珠、真的希望我人門永遠是朋友」(孟 玲)

四年間のおわりにサヨナラ・パ−ティ−を貸切りで開いてくれた。色紙とともに、その晩のすべての歌を吹き込んだテ−プとともにプレゼントされた。中国での「カラオケ行脚」はここで終了し、アジア諸国へと移っていった。アジアでも、南半球のオ−ストラリアでもチャイニ−ズ・ソングが親しまれていることを知った。中国を離れて、そこに住む中国&中国人を「中国語カラオケ」を通して観察し続けていこう。